黄金の大地、夢づくりにかけた木村久太郎

1866年(慶応2年)鳥取県境港市生まれ。
彼は台湾の基隆(キールン)の金採掘で一財を成し、東京で鉱業会社を設立し「金山王」と呼ばれた。明治36年、別府にやって来た木村は「温泉脈のあるところには良質の金鉱脈がある」とねらい、べっぷ昭和園のある乙原地区に30万坪の土地を買い付け、調査し試掘をはじめた。ねらい通り見事に金鉱脈を掘り当て『別府金山』として軌道に乗せた。

ところが大正5年、金鉱を掘り進むにつれ温泉が湧き出してしまう。予想外の温泉の湧出量と高熱の水蒸気に悩まされ、ついには採掘を中断せざるを得ない状況になってしまった。(これがべっぷ昭和園「金の湯物語」の由来である)
しかし木村はあきらめきれなかった。この地は金含有率が高く、さらに質の高い金鉱石が多いことも知っていたからである。大正12年、この地に採鉱技師・山崎権市を派遣する。期待に応えた山崎は巧みに温泉源を避け試掘を行い、「わんかけの金」と呼ばれる最良質の金鉱脈を掘り当てた。だが復活の兆しが見えたちょうどその時、天災に巻き込まれてしまう。

大正12年、関東大震災である。東京に本社を置く木村の鉱業会社も莫大な被害を受け、その影響により経営資金が枯渇してしまった。同じ頃、「別府金山」のある地域住民からは温泉脈に悪影響が出始めたと報告を受け、採鉱中止を申し込まれる。
志半ば、操業を断念することとなった。



ハイテク観光で英知を見せた山崎権市

大正12年、別府での再興を共に夢見た木村久太郎の後ろ盾を失ってしまう。
別府金山のあったこの地は眺望絶景。別府湾や別府の温泉地を一望できる。何とか活かせないものか…夢をあきらめず必死で考えた。眺望を楽しむには傾斜の急なこの山を登らなくてはいけない。幸いにも山崎は天性の採鉱技術のほか、ハイテク技術に関する知識もあった。「電車を走らせよう」そう思い立ちケーブルカー導入に奮闘する。この話はべっぷ昭和園の隣にある現在のワンダーラクテンチのことであるが、この山は山上までの傾斜が30度の急坂で山崎の考えは簡単にはいかなかった。

当時の日本では類を見ない試みの為、海外からの技術を得ることになる。山崎が目をつけたのはスイスのつるべ式客車であった。早速スイスより技師を呼び指導を受けラクテンチ開園の昭和4年に『ケーブルカー』を開通させた。以来、市民の楽しみの場として賑わった。昭和初期には軍部にラクテンチの鉄や金属に目をつけられるが、乃木神社を建立し「軍人を祀るラクテンチ」とPRし、市民や観光客の楽しみを守った。「夢を創って夢を売る」知力を駆使し別府観光の立役者になった山崎権市は別府の観光王・油屋熊八と共に名を残した。


別府観光に夢をかけた油屋熊八

この人なくして今の別府観光はない!
1863年(文久3年)愛媛県宇和島市生まれ。
米問屋の生まれで30歳の時に富を築き成功するが、日中戦争後に相場に失敗し財をなくす。その後35歳でアメリカに渡り、キリスト教の洗礼を受けて約3年滞在する。 その頃、熊八の妻は別府に身を寄せていた。帰国後は妻の元を頼り別府温泉に移り住み、新約聖書の「旅人をねんごろにせよ」というサービス精神の合言葉を基に1909年(明治42年)『亀の井旅館』(現・亀の井ホテル)を創業した。

以来、日本初のバスガイドを使った定期観光バスの運行開始や由布岳の麓の由布院に著名人を招く別荘(現・亀の井別荘)を建て観光開発に寄与した。また、観光ルートの開発や交通の利便性向上に向けて積極的に発言、実行した。
別府温泉のキャッチフレーズ「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府。」を発したことは有名であり、今では一般的になった温泉マークを別府温泉のシンボルとして愛用したことにより全国に広めたともいわれている。
熊八が輝き続けたことは別府温泉にとって非常に大きかった。その輝きを維持できたのは熊八を磨き続けた盟友・吉田初三郎の存在があった。




大正のアートディレクター・吉田初三郎

大正の安藤広重とも謳われた大正から昭和にかけて活躍した絵師。全国各地の名所を鳥瞰パノラマ図としてダイナミックに描画していた。
大正2年、当時別府町は観光客誘致の宣伝活動を積極的に実施すべく、宣伝ポスターの製作を初三郎に依頼した。当時は熊八の活動により、活気づいている真っ只中で別府温泉の躍進に大切な時期であった。依頼を受けた初三郎は別府温泉の立ち上る湯けむりと光り輝く金山の存在に、この地の限りない可能性を感じていた。
ちょうどその頃、大阪商船の紹介で熊八と運命的な出会いをする。別府温泉と熊八に惚れ込んだ初三郎は別府の為に数多くの作品を残していった。別府観光を先頭に立って引っ張っていた熊八と行動を共にすることにより、熊八の奇抜なアイデアや行動力を見事に形として残し期待に応えた。得意の鳥瞰図をもとに、観光ポスターや亀の井旅館ポスター、外国人向けのDMの製作を行うなど現代で言うアートディレクター的な存在になっていました。

初三郎と熊八は度々、別府金山や乙原源流を訪れている。この地から別府を一望し、別府の未来・希望をたくさん語り合ったことと思われます。 その先人たちの偉大な足跡が今もなお息づいています。